日本のサーフィンの歩み
◆始めてのサーフィン大会

1960年代は、我が国においてもサーフィン時代の幕開けでもあった。しかしなにもない所からのスタートは、数多くの障害もあり世界との差に大きく水を開けられる事となる。本記述取材の協力者で、本組合の初代会長であるゴッデスの鈴木氏が歩んだ道は、まさにイバラのようだった。
茅ヶ崎サーフ物語で述べたように、一枚の写真から見よう見まねで「ベニア板」を加工することから始まった。やがてひとりふたり…サーフィンに魅せられた男達が現れ、波に乗りたい!サーフィンがしたい!という情熱が彼らを突き動かし、ようやく日本のサーフィン史が綴られる事となる。
そして、1966年第一回全日本サーフィン選手権が、千葉の鴨川で開催される。板の長さは10ft、3m近くで、重さは12kgもあった。ジュニア(20才まで)の部とシニア(20才以上)の部の2クラスに分けて競った。地元鴨川の川井幹雄、勝野訓年がそれぞれの部で優勝し、川井幹雄は翌年67年と68年と続けて同大会で優勝し3連覇と言う偉業を成し遂げた。
1968年の第3回大会は、湘南地区、鎌倉の七里が浜で開催され、鈴木氏もシニアクラスチャンピオンの座を手にする。
このように日本のサーフィンもハワイやオーストラリア、カリフォルニアと同様コンテストを中心に育ちはじめ、世界のレベルにようやく手がかかる所までに辿り着いていくとことなる。


◆これからの日本のサーフシーンを継ぐ者

1976年、日本で国際プロコンテストが開催された。世界のトップサーファーを招き、それに見合う賞金がかけられた。日本のサーフィンがそこまで発達し、広まったことを意味する。当時日本のサーフィン人口は世界3位であろうと言われていた。
しかし、このトッププロの招聘が日本のサーフィンシーンに大きな衝撃を与える事となる。彼らは自国のスポンサーの有能なセールスマンであり、そのライディングテクニックは日本人サーファーを全く寄せつけないレベルだったのだ。事実、それと同時に各国から大量にサーフィン用品が日本市場へと流れ込んで来た。これをきっかけとして、日本の業界もビジネスへの大きな変ぼうを遂げる。サーフボードやウエットスーツの開発や製作、コンテスト開催と運営。日本のサーフィンはビジネスでも世界の脚光を浴びるまでに成長を遂げて行く事となる。
しかし、歴史の浅さ、気候や地理的条件による波質や大きさなど、様々な要因によってプロサーファーのレベルが世界の壁の高さになかなか届かないのが現状である。
我々日本人は、特に現代人は体形をしても決して世界に見劣りするようなものではない。なによりサーフィンに必要なねばり強い足腰を持つ…と思っていたが、体形とは別にフィジカルの部分でも、世界に比べ劣り始めているのは否めない。おそらく生活習慣や遊び、教育の変化による子供達の成長過程にも課題があるように思われる。なにより研究熱心で努力を怠らない。日本人ならではの良さを引き出し、子供達を中心に次世代のサーファーを育成して行く事も、我々の仕事に加わる。本、茅ヶ崎市サーフィン業組合も、これらは真剣に解決しなければならない課題のひとつとして取り組んでいきます。



(取材協力:ゴッデスインターナショナル代表 鈴木 正氏、著書:講談社出版『サーフィン』より)

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